アート作品

2012年01月09日

アート作品の評価とは

 アート作品が売れたことをもって評価されたという人がいる。
 高く売れたら、それだけ評価も高いという。それも一つの評価には違いないが。

 それでは、他の作家の、それより安い作品は、評価や価値が低いという訳か?

 価格(値段)の高低は単純に比較できるから、わかりやすい。
 アート作品の売買で値段が付けられ、売約されて実績は残る。どの作家の作品がいくらで売れたか、作家の売上高が、アート市場での市場価値ということはできる。

 それは、画商などバイヤーや投資家あるいは投機家にとって、もしくは画家にとっては、その収益性という意味で重要だろう。

 しかし、市場価値だけが、アート作品の評価の基準なのか?他にはないのか?

 市場価値は、通常、マス・メディアと連動している。

 マス・メディアに頻繁に取上げられれば、知名度が上がる可能性は高まる。また、知名度の高い作家の作品は、マス・メディアに取り上げられ易い好循環も生まれる。

 市場での販売価格、マス・メディアでの露見、知名度、集客力、宣伝効果、などなど高評価を得る。

 知名度が高ければ、画商あるいは美術館などにとっては、集客力があって都合がよい。宣伝広告が効果的で、経費を無駄にかけずに済む。
 画商は値段が高くても楽に売れるし、美術館は高額で収蔵しても借りても集客で利益が出る。

 だから、作品が優れているのか?くどいようだが、それは市場価値に過ぎない。

 高額な作品または知名度のある作品、イコール優れた作品ではない。

 誰にとっての高評価なのか?本末転倒のトリックに騙されてはいけない。

 アート作品に限らないことだが、高額、イコール価値があるといえるほど単純ではない。

 独自の価値観をもってない人は、市場価値を受け入れることになるだろう。

 あるいは購入者独自の価値観による作品評価とその購入目的(動機)から、作品の価格(市場価値による評価)との均衡を考えないで購入する人は経済感覚にも無頓着な人くらいだろう。

 一個人で高額な作品を購入する場合は特によく考えよう。購入する動機や目的を。



tenshijunreitenshido at 13:44|PermalinkComments(0)TrackBack(1)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote

2012年01月08日

アート作品の評価とは(補足)

 前回、「アート作品の評価とは」で、作品の市場価値について触れた。

 画商の立場では、収益性の観点から販売価格が高額の作品の評価は高い。

 しかし、仕入れ面では逆に廉価でなければ収益性は低くなるから、高額作品は負(マイナス)の性格も帯びている。

 それはまたアート作品を鑑賞して楽しもうと購入する人達にも同様にあてはまり、高額な価格はマイナス要因である。

 では、高額作品を好ましいと考えるのは誰か?

 それは既に作品をたくさん所有しているコレクター、在庫(作品)を抱えている画商(美術館)、債権として押さえている銀行、あるいはアーティストまたはその遺族、そして販売広告そのものが収入源のマス・メディアである。

 アート作品の価格が高額で話題になるのは、市場で販売する時または手放す時であって、消してアート作品を鑑賞する時ではない。

 鑑賞目的でこれから購入を検討する時はそのことを加味した方がよい。



tenshijunreitenshido at 04:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote

2011年11月30日

アート作品の受け手の条件

 額に入れた絵を部屋に飾って楽しむことを否定する自称アーティストもいる。
 でも、絵のあり方というよりもむしろその前に一般的にアート作品を制作するアーティストだけでは、アートも芸術も成り立たない。作品の購入者や鑑賞者など、その受け手を必要としている。それも単に物理的に存在すれば成り立つといいたい訳ではない。

 翻って、鑑賞者が作品を理解できないとき、作品に原因があると大多数の人は勘違いしている。それは受け手の個人的な感受性(センサー)の器量の狭さに過ぎない。

 狭さを批判しているのではない。受け手側の問題を見落とさないよう注意を喚起しているだけ。狭いのが普通だから。研ぎ澄まされた感性なら尚更。感性は多様化し細分化し限りなくあるから、極少数派も限りなくありうる。極少数といっても全体から見ての比率の意味で、実際の人数になれば千とか万単位でいるかも知れない。

 しかし、それらの少数派は集団としてかたまっているわけではなく、ばらばらでどこにでもいる普通の人のこと。

 ある無名な先鋭アーティストの作品に共鳴できる少数派がいたとしても、バラバラで何処に居るのかもわからないから、展示会でその目に触れるチャンスは絶望的に少ない。大多数の受け手の偏見の一笑に付されるまでもない。

 それにもしアーティストの作品が万人に受け入れられなければならないと考えているとしたら、それは偏見に過ぎない。注文通りに作られた訳でもなく、万人に対する受け狙いで作られた訳でもない、制作者が個人的な都合で、無視されるリスクを負って好き勝手につくった作品を公に展示販売して、そう簡単に赤の他人に受け入れられる例があったとしても極稀だろう。

 アート作品とはアーティストの限りなく個人的なもの。売ることは二の次と考えているのが正体。
 そこで受け手に欲求不満が起って当然。不満がないのは文化的欲求すら無いのも同然。多様化し細分化した感性の者同士の中では、極少数の感性の合う者同志とのマッチングの確率がより低くなっている。更に作品と受け手が出逢う場も機会も情報も、受け手のアクティブさも不足しているから、アーティストも受け手も孤立して孤独な存在と化している。

 アクティブな受け手が少ない理由で、美大や美術専門学校が供給した制作者の過剰な作品群を理由に、エリートの選別、強いては制作者の淘汰を訴え、内外を問わずパトロン的存在の富裕層へシフトさせて客層を絞り込んで顧客単価の底上げを狙う向きもある。それは、大多数の無名アーチストを切り捨て、庶民的愛好家を切り捨て、短絡的な仲介・画商サイドの業界サバイバルに遁走する、まさにアートの普及や活性化と逆行した効率と利益優先の市場原理への屈服。

 すでに制作者は、市場原理で淘汰しつくされており、それでもなお、また、美術教育を受けた者とは別に自己流でこのの道にいたったアーティストたちが兼業しながらも、資本主義の経済効率優先の競争社会の苦境の中で制作に励んでいる。アートは個性最後の砦、効率や合理化との対極、敵対関係にある。アート作品の制作は限りなく個人レベルに近いからできること。

 アーティストの選別よりむしろ潜在的な無数の受け手を活性化させる必要がある。それには生の作品を受け手に引き合わせる場と機会がもっともっと必要になる。アートが生存するためにも、数多く存在する極少数派の、感性の合う者同志と作品とのマッチングが叶えられなければならない。

 ただそんな贅沢は有りえ難いのが実情。市場原理の優先世界ではアートはマイナーで不幸が常なのだ。もしメジャーなのがあったとしても、大資本とマスメディアの宣伝戦略の陰謀に過ぎない。アメリカの歴史が先住民のそれでないのに似て。

 ところで、日本の成人一人が最低で1年間の生活費(家賃、食費、光熱費、社会保険料、税金、交通費など)はどのくらいだろう?仮に当てずっぽうで360万円くらいとしてみる。アートの作品価格の約4割は企画画廊の中間マージン、1割が材料費としたら、例えば、価格18万円で40作品(18万x40x(1-0.4-0.1))を年間に売り上げなければ、専業アーティストの生活は1年も成り立たない。作品3万円ならで240作品、毎月20作品を制作して完売する必要がある。大多数の無名アーチストの専業は、はなから破綻している。それでもアーティストは作品をつくり続ける宿命にある。

 少なくともアートの受け手は義務教育で美術を学習し、教養として美術書や画集、マス・メディアから情報や知識を得た。裕福なら日本全国から海外の美術館まで足を運んで鑑賞している。外国の一部の作品も日本で展示されてきた。しかし、それだけが芸術ではない。

 気に入るのを手に入れようとデパートに行けば売っていると思ったら考えが甘い。そこでろくなのがないと文句をいうのは勝手だが、個性的な好みに合う作品の種類がそれほどあるわけがない。

 デパートでも商品としての作品は買えるが、百歩譲って芸術のほんのほんの一部に過ぎない。資本主義の大量浪費似非文化に染まった富裕層の鑑賞者、作品購入者は何か勘違いしている。

 現状で、戦略的に植えつけられた有名芸術ではない、本当の自分の感性と共振するアート作品に出逢いたいなら、受け手ももっとアクティブに捜し求めねば見つけられない。受け手との交信を待っている自分のための作品を。



tenshijunreitenshido at 16:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote