2015年04月04日 09:44
ここ数年、主に Facebook で情報を発信しておりまして、ずっとブログの更新を滞らせ
お越しくださる皆様に大変、申し訳ないことでしたが、まだしばらく Facebook を中心に
発信していく所存です。ということで、アカウント登録されておられない方にもご覧になれる
天使のいる回廊 天使巡礼天使堂 #伊豆高原 Facebookページ
をつくってありますので、是非、覗いてみてください。
なお、お薦め展示会(個展やグループ展)、追夢人の近況など一般公開している
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天使のいる回廊 天使巡礼天使堂 門番 追夢人
2015年03月18日 02:44
現役の絵描きさんの絵画は、一般の人が観る機会は、限られるけれども、実は、美術学生や趣味で描いている人も含めれば、現役の絵描きさんの絵画の実数は、間違いなく膨大な数に上っている。
美術館を含む絵画売買の市場向け宣伝広告メディアによる知名度、周知度だけを頼りに、絵画を楽しもうとするのは結構なことではあるが、それだけでは近視眼的なのは間違いない。
絵を嗜む(描ける)ことに越したことはないのは言うまでもないけれども、描けなくても鑑賞するのは決して難しくない。ただそういう生活習慣を持つのは容易とは言えそうにないのが現状であろう。
海外の歴史的な巨匠の名画の、日本での展覧会の美術館の入場者数が十万人を超えたりもするが、銀座界隈の画廊でさえ、客足が減少の一途にあると画商は嘆き、アートフェアで、内外の超富裕層の大人買いに期待して、アーティストのブランディング(捏造?)で一攫千金を夢見て(妄想して)いるか、一部の大コレクターのなかには、なぜか画商の上目線から、絵画の供給過多を抑制し、価格の下落を防止しようと絵描きの淘汰?を推奨して、発掘したお気に入りの若手の、未だ廉価な絵画を購入することで支援と称しつつ、馴染みの画商やアート・メディアに重宝されているようだけれども、そんなのは小さな業界の内輪話に過ぎない。
某有名百貨店の美術サロンで展示販売されている額装も立派な、いわゆる高額一流絵画がお好みならば、それはそれで結構ではあるけれども、銀座京橋界隈のみならず、各街の小さなギャラリーには、ならではの多種多様性も面白い。
歩いて見て巡るだけでも、心身ともに健康にもよい。
ところで、絵描きさんにとって、絵を展示するのに公共施設は経費が少なくて済むのは好いけれども、慢性的に満員で、予約はずっと先になる。
それに絵を展示したいと思うのは、絵描きさんだけだろうか?
私は会社員だった時、自腹で購入した絵は、勤め先の空いた壁に展示させてもらっていた。所属部署の部屋はもちろん、会議室、応接室、エントランス、廊下、飾れそうな空いた壁は全部。自宅では飾れる壁は少ないし、ほとんど睡眠のためだけに帰る自宅より会社での滞在時間が圧倒的に長かったから。ただ、誰にでも好まれそうな画風の絵に限られたけれども。
絵画ではないが、写真同好会の同僚など数名は、会社近くで駅前にあった、行き付けの小さな個人経営の喫茶店の狭い壁にずっとただ飾って貰っていた。
絵画を他人に観て貰う為の展示は、画廊や美術館に限らず、好きな者同士なら、その機会はつくれる。ギャラリー以外の場所での展示を馬鹿にしたり軽んじてはいないだろうか?
絵画を直に鑑賞できる場や機会をもっと増やした方がよいと想う。絵描きは、同時に鑑賞者でもなければ、絵画は普及しないと思う。絵画を購入してまで手元で鑑賞したくなる気持ちも、そういう身近な処で接した体験から生まれると想うから。
絵画を売買の商品としかみなせなければ、小さなパイの奪い合いか、富裕層しか実は相手にしていない利益最優先の吹っ掛け詐欺もどき商法の印象しか、一般には周知されないだろう。
2015年02月15日 07:44
はっきり言って、あまり好きな用語ではない。
コレクションの投機目的は少ないとは思うけれども、資産目的は少なくない
気がする。
絵画の場合、資産とか想っているのは、妄想か、大方、詐欺に近いと思う。
つまり、ほとんどお蔵入りさせて、死蔵する訳だから。
それを薦める人は一部にいるし、それを聞いて期待してしまう人は多そうだ
けれども、とても気持ち悪い。
またコレクター中に購入が支援になると、若手の絵描きの絵画を単純に薦める
人達も一部にはおられるけれども、反面、若手に本人の実力を勘違いさせる、
解かり易く言うと、つまりは思い上がらせる場合もあり得る。
なにより若手の絵画を死蔵させるようなコレクターが言っているとしたら何の
説得力もない。
絵画は、飾られ鑑賞されて生きるものと想うから。
もちろん購入した絵画をどうするかはご自由ですけれども、だからこそ敢えて
憎まれ口をきいているのですよ!
2014年12月25日 09:44
無名の絵描きさんが、自分で描いた絵を展示販売する為に自腹を切って、貸ギャラリーを借り、
全く売れなかったり、数点売れても、赤字になることは少なくないと思うけれども、絵描きさんの
なかには、最初から非売で展示会をする人達もいる。
売る為に描いているのではない絵描きさんも、世の中には少なからず存在している。
そういう絵描きさんについて絵画の愛好家の耳に入ってくるのは、全てではないけれども、
絵を売って生活の足しにして描いている絵描きさんなどから、大方、「自己満足」や「趣味」や
「道楽」や「日曜画家」という言葉などで、どちらかというと蔑んだ文脈の上でが少なくない。
それに兎に角、絵画を購入したい人達との接点は少なくなる。
私は、十数年前に購入してから絵画に強い興味を持つようになり、今まで少しずつでも集めて
きた経緯があるので、絵画について考えをめぐらす時、売り絵を描く絵描きさんやギャラリスト
(画商)などの絵画市場がその対象の範疇でしかなく、観るだけで買えない展示会や美術館は、
興味の上では二の次であった。
しかし、絵画購入に当たって、私にとって絵画の内容や質は高い方が好ましく、価格は低い方が
好いけれども、絵描きさんやギャラリストにとっては逆であろうから、その利害対立が私の悩みの
種の一つになった。絵画購入の悩みは、その他にもっと沢山あるが、ここでは触れないけれども、
いろいろと悩んで考えているうち、市場での絵画を介した、絵描き、ギャラリスト、購入者の三角
関係までは考えが及んだけれども、本来の目的であるはずの絵画鑑賞について考えることが疎かに
なっていたことに気付いた。と同時に売買に偏った思考しかできなくなってることにも気付けた。
しかも、私は描かないから、鑑賞や購入する立場からの発想に偏っていた。絵を描く絵描きさんの
立場になったつもりで考えようにも、絵を買う前提だったから、絵を販売する絵描きさんしか想像
できてなかった。絵描きや作品を集めて美術展を企画開催するキュレーターや美術館の学芸員や
絵の知識や技法や描き方を教える美術教育者も、関係者は他にも沢山いる訳だから。
そんなこんなで、そもそも描く行為自体と展示を介す他人との社会的交流が絵画の本質と解った。
つまり、売る為に描いているのではない絵描きさんこそ、本来の姿であって、絵の販売は後に派生
した副次的行為でしかないとの考えに至った。
今の私は鑑賞者でしかないけれども、絵画の本来的に在るべき世界は、絵描きと鑑賞者、強いては
購入者やコレクターに分断されるのではなく、絵くらいは全ての人がもっと気軽に自ら描いて嗜む
べきなのだ。
ところが、市場では、絵描き、絵画、ギャラリスト、コレクター、ひやかしに過ぎない鑑賞者、
作者にしか興味が無いストーカーみたいな位置付けがされる訳で、ギャラリストは商売上、
コレクターを上得意とし、絵描きは必要以上に気を使い、それが当り前と想っているコレクターは
無意識に天狗に成りかねない。更にコレクターのなかには、若手支援とかを名目に恩を着せ、
作品以外でも、世間知らずの若手にその見返りを無意識に期待したり、制作の方向性にまで口出し
しようとする訳だから、さあ大変というか、もう大変な販売環境になっているように見える。
コレクターなら、作品以外の見返りを期待せず、静かに見守るくらいのスタンスがよろしいし、
若手支援というなら、その眼力で見込んだコレクション絵画を世間に展示して訴えるくらいで
なければ、単に購入しただけなのにギャラリストと若手に恩着せがましくなるだけと思う。
豊富な軍資金や死蔵数で自信過剰なコレクターさんも、ご観覧無料で非売のコレクション展でも
すれば、自腹を切り、貸ギャラリーで展示販売しても一点も売れずとも、めげずに描き続けたい
無名で若手のほんとうの想いも少しは分かるかも知れないし。
QT ノート「もう一案」
私が申し上げるのも何なのですけれども、若手?支援を旗印に絵画コレクションを飾る場所は
おろか、その置場にも困るほど買い増しする為に方々のギャラリー巡りをしておられるコレクター
様にご提案申し上げますけれども、死蔵の数を増してないで自腹を切ってでも、お仲間同士でも、
ご観覧無料の、非売で渾身のコレクション展などでもっとアピールなさってはいかがでしょうか?
その作品群の集客力が、あなた様のコレクターとしての眼力の証と言えなくもありません。
そのスリリングさを含めた方が、コレクターとしての充実度も、私的な次元を超えて社会性を
帯びるというものとも想います♪
ただ、買い増して死蔵するだけでは、画商を喜ばせても、私には若手支援とはとうてい思えない
ので!(門番 追夢人)
2014年05月21日 00:44
いつもブログにご訪問してくださり、誠にありがとうございます。
最近、ブログの更新が滞っておりまして大変申し訳ございません。
現在、 Facebook にて、絵画について情報発信する機会が多くなりましたが、
こちらのブログとの連動がないために、このブログにご訪問してくださる皆様に
お届けできず心苦しく思っております。
もしよろしければ、皆さまも Facebook にご登録(アカウント登録)して頂き、
tenshijunrei tenshido をフォーローして頂ければ、絵画について何かお役
に立てそうな情報をご提供できるのではないかと考えております。
Facebook を始めてから、そのご利用方法で何か解からないことがございましたら、
そちらの方で、私にご質問くだされば、高度な内容はお答えできませんが、入門的な
ことなら、アドバイスできると思います。ただし、パソコン利用の方法に限ります。
Facebook のアカウント登録には、姓名 (ローマ字)、メールアドレス、パスワード、
生年月日、性別のご入力が必要です。→ https://www.facebook.com/
お待ちしています。 門番 追夢人
2014年05月10日 05:44
ラティチュード(latitude) の原理は、鉛筆画の鑑賞に際し、私の感性を内省する上で
重要な位置を占めている。
私は30代前半の数年間、主にネガカラーフィルムで屋外の写真撮影(ポートレイトや
風景など)を趣味にしていたので、撮影時のカメラの露出やフィルム感度などの知識を
ほんの少し勉強したのが、絵画鑑賞をした後で自分の感受性についていろいろ考える
時にとても役に立っている、換言すれば、影響を受けていると想う。
ちなみに、ピント(焦点)が合う奥行きの被写界深度とか、写真の焼加減というか、
軟調とか、硬調のとか、写真についての知識が、鉛筆画の全体の印象にも係わると
思われる描き方の特徴を大まかに捉える上で参考になっていると想っていたけれども、
却ってそれらは、絵画鑑賞にはバイアスの部類に入るのだろうか!?
※2014/5/9(金)のFacebook の門番 追夢人のノートより転載
QT ラティチュード、ラチチュード、ラティテュード (latitude) とは、一般的に日本では写真用語であり、音響学・信号処理分野で言うところの「ダイナミックレンジ」に相当する。感光材料(写真フィルムなど)が、画像(階調の集まり)として再現できる露光の範囲、寛容度を表すことに使われる。露光寛容度、露出寛容度とも言う。英語ではexposure latitude。
概要: 写真撮影(露光)において、感光材料に対し適正より少ない露光量(露出アンダー、画像が暗く階調がつぶれるおそれがある)や、反対に適正より多い露光量(露出オーバー、画像が明るく階調が飛ぶおそれがある)であっても階調が無くならず、画像として成立するような特性(露光許容量が大きい)を「ラティチュードが広い」と表現する。このような特性の場合、暗い部分(シャドウ)から明るい部分(ハイライト)までなだらかな階調が再現できる反面、画像がフラット(眠たい調子)になりやすい。
逆に再現できる露光の範囲が狭い特性を「ラティチュードが狭い」と表現する。この場合、露出オーバーやアンダーに対して、白とびや黒つぶれを起こしやすいが、コントラストの高い画像を得ることが出来る。
一般的にネガフィルムはラティチュードが広く、リバーサル(ポジ)フイルムや固体撮像素子を用いるデジタルカメラのラティチュードは狭い。撮影においては、ラティチュードが広い方が扱いやすい。
※ ウィキペディア フリー百科事典より抜粋
絵画の購入者も写真の撮影者も、いわば、ハンターだ。
撮影者と被写体とカメラやレンズと光量の流動する関係性の実存という限界内で、
撮影者は、写真撮影という無限の表現の可能性から、その追い求めた瞬間を
見つけて捕らえる。
絵描きには、才能と画材の他には制約が少なく、写真よりも表現の自由度は
遥かに高い。
その描いた絵画は、表現の無限の可能性から、絵描きが追い求めたイメージで、
視覚化されて、第三者にも展示販売という形で提供される。
絵画購入者の表現に対する自由度は、注文以外には、ほとんどない。
あるのは購入者の絵画に対する感受性の自由だけである。
換言すれば、無限に自由な解釈が許されているに過ぎない。
その制約の中での醍醐味は、購入者が追い求めたイメージを絵画に見つけた
瞬間の喜びと想う。
※2014/5/9(金)のFacebook の門番 追夢人のノートより転載
2014年04月19日 17:44
私は絵を描いておりませんけれども、絵画をみたいのです。
それも「こんな絵は初めてみた!へー!」と驚きたいのです。
そして、それが好みであれば嬉くなり、他にももっとみたいと想うのです。
ですから、その絵が、私にとっての「画家」が描いた作品であろうと
絵本作家やイラストレーターが描いた原画であろうと
アマチュアや子どもが描いた絵であろうと何でもよろしいのです。
ただ、それらを鑑賞するだけではなく、購入したり、販売するとなると
その絵画に纏わるもっと詳しい情報が必要になります。
少なくとも私にとって、「作品」か、「原画」か、ただの「絵画」だけれども制作した動機や
経緯などが分かれば知った上で納得しておきたいので、その情報を私なりに解釈します。
それにあたって、それぞれの定義付けが必要なので私なりに考える訳です。
その解釈は、世間一般とは異なってくる場合もありえます。
例えば画家とか、イラストレ-タ-とか、プロとかその定義は世間では漠然としていますから
自分なりに解釈して整理しています。
画家とは世間では職業ですが、私の視点の比重はそこにはないので、画家は職業である必要は
ないのです。いわば、絵画表現の自己探求者であるか? 換言すると、自己の奥深い中に
万人に共通する普遍性を絵画で具現化しているか? ということ、それに加えて完成させた絵を
「作品」として他人にみせてもよいと想っていることが「画家」の必要条件です。
言葉で説明すると違和感をお持ちになる方も少なくないでしょうけれども、私が絵から感じるのは
それしかないので、そう想うしかないのです。
しかし、「プロ」についての視点は、今のところ私にとっては必要ではないので、
特に突き詰めて考えたことはありませんから、漠然としたままです。
ただ、私の仲介で、ある絵画を販売する立場にある時、その絵画の制作者が現役ならば、
その方なりのプロの自覚を期待しますが、ない場合でも、その絵画が、私の基準から見て、
少なくとも商品(物)としての質を保っているのと販売意志を有することが必要条件です。
また、その絵の内容が「作品」または「魅力ある絵画」として世間に紹介したいと
私が想えれば十分です。
絵描きさんにとっては、芸術家とか、アーティストとか、美術家とか、画家とか、
絵描きとか、イラストレ-タ-とか、絵本作家とか、プロとか、アマとか、日曜画家とか、
問題に直面する場合も多いと思います。
それは必要性に応じてご自身でお考えになり、使い分ければよいと想います。
ただ、それらについて、私と話をする必要性が生じた場合には、各自の「定義」の核心部の
擦り合わせ、つまり共通認識がある程度は必須になると想います。
2014年04月14日 08:44
お前は白いしっぽ
お前は白いしっぽ
お前は白いトカゲのしっぽ
そうだお前は白トカゲのしっぽ
コウモリに喰われそうになったら切られる真っ白なしっぽ
逃げ切るまで力いっぱい暴れてコウモリの気を引くんたぞ
そうだお前は真っ白なトカゲのしっぽだ
コウモリの気を引くのがしっぽの役目だ
お前は身を守るためのしっぽでしかないんだ
ただ切られるためにある白トカゲのしっぽだ
そうだお前はただの白いしっぽなんだ
よいか、切られたら力いっぱい暴れてコウモリの気を引くことを忘れるな
よいか、切られたら力いっぱい暴れてコウモリの気を引け! わかったな!
切られたら力いっぱい暴れてコウモリの気を引くんだぞ! 忘れるなよ!
切られた白いしっぽは忘れずに力いっぱい暴れて、暴れて、暴れた!
暴れまくって、コウモリの気を引いた!
それなのにコウモリは白トカゲの身体をうまそうに喰ってしまった。
なぜって、白トカゲは自分を白いしっぽとしか思ってなかったそうな。
それじぁ、悪魔の奴隷になったのと同じじゃぁないか?
羽ばたけば、逃れられたものを。
みんな天使なんだから。
2014年04月10日 04:44
出たら、恐怖でどうかなりそうで怖い。
人間はもっと恐ろしいと思っているけれど
それとは異質な恐怖の様な気がしてとても嫌です。
それは幽霊を信じているということかも知れません。
そういう意味では、私は聖母マリアを幻でもよいから
現れてくれないかなと夢見ています。
以前、車内で十字架やロザリオをしている人と隣合せ
になるか、眼前に立つか、真向いか、その左右に座るか
囲まれたりしたことが、数年間も続いていました。
最近はその頻度は少なくなりましたけれど。
数年前の4/4に私は変わった人と車内で隣合せに
なったことがあります。
帰宅後、直ぐにそれが生霊ではなかったかと
疑わざるを得ない経験をしたこともあります。
その経緯を詳しく友人に聞いてもらったら
それは私だけにしか見えない幻覚ではないか
他の人には見えてなかったのではないかと
言われて、ゾッとして凄い恐怖心に襲われた
こともありました。
因みに私はイエスキリストが神とは
考えておりませんし、キリスト教を
信じてもおりませんので、使徒でも
信者でもありません。
2012年10月30日 18:44
最近、ブログの更新が滞り、お越しくださる皆様に申し訳ないです。
ということで、門番 追夢人のFacebookを一般公開しています。
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天使のいる回廊 天使巡礼天使堂 門番 追夢人
2012年08月14日 04:44
自己表現と受注制作のはざま
イラストレーターのイラスト制作は、資本力のある注文主を大前提にし、その完成作品が主に印刷物というところに特徴がある。印刷物は量産され廉価にできるため、既に存在する顧客市場に乗って普及しやすい。
イラストの完成作品は、例えば、小説の装丁画や挿絵など第三者との共作であったり、または、広告や商品パッケージなどの一部に使用されたりするので、イラストレーターのイラストが独立した作品として制作されることは基本的にない。
また、画家の作品制作には、作品の受け手としての他者を前提にしながら、内発的な動機を端緒とする自己満足を最優先した自己表現の創作と、発注者としての他者の要望を優先しながら、多かれ少なかれ自己表現との妥協点を見い出す創作とがあり、後者は、例えば、教会や寺院などから宗教画の依頼などの受注制作である。
イラストにしても、受注制作の絵画にしても、少なくとも発注者を満足させねば成立しないという点において、創作力や高度な技能の実力が制作者の大前提となるので、少数精鋭にならざるを得ないが、職業として継続できている場合は、知名度と社会的評価を伴っていることが多い。
一方、自己表現を主とする個人的な創作は、その気になれば誰でも始められるが、作品は一点物の場合がほとんどで、また数も量産に限界があり、その作品に共鳴する購入者も、限られた極少数の一個人になるので、その作品販売の収入のみで生活を支える職業として成立させるには社会環境のハードルは極めて高いといえる。